神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

大谷司完 伝 ー道場設立2ー

伊勢の小泉太志氏夫妻の司完師への訪問がされます。琵琶湖でフグが捕れたと言うニュースが新聞に掲載されました。淡水の湖にて海水魚のフグが捕れたことで珍しい事なので、小泉氏はその謎を解いたのでした。フグと言う事は福に通じ、琵琶湖即ち滋賀県に福の神が降りられていると、彼は謎を読み取り、それはことしろ舎の大谷司完師であるとして、手紙にて来訪を知らせて下された、ナカナカの読みの鋭い方なのでした。

(注)小泉太志氏は伊勢「伊雑宮」の神主で、剣の達人であった。古神道により霊覚を得られ師事を受けていた有名人も多く、国の行末を案じておられてとの事でした。平成元年九月二日、八二歳で帰幽されたと伝えられている。

 

昭和四十七年ことしろ舎大道場新築完成。同年八月二十六日、瑞霊神地上に降りられる。同年十月三十一日 神界を許される。

昭和四十八年、『凡庸の道』発行される。

『凡庸の道』は大谷司完師が大正十年より瑞霊神の神屋敷へと引き寄せられ、霊界に於いてほとんど毎日の様にお諭しを受けられた十七年分の神教を、公開されたものです。

司完師は「救われたいと思いながら経済的な理由で私に会いたくとも会いに来られん人達をどうすればお救いできるのでしょうか」と神様にお伺いされますと、神様は「それならば今迄お前に教えて来た事を本に出して教えてやれ」と申されましたので、神意のままに本にして出版されたのでした。

昭和五十一年八十三歳の時、『続凡庸の道』を発刊される。

「何年信心してもお陰がない」と言うのは、その人の心の持ち方が違うからなのです。『続凡庸の道』には、実際に本気になって信仰をした人と、そうでない人との区別をどう違うのかを書いています。

道を開くのに便利な奥の院の事を教えて上げたいのです。私は出来れば日本人全体を良くして行きたいと思っているのです。と『続凡庸の道』の言わんとする処を述べられています。

昭和五十一年の年間を通じて、司完師は気になる人物には個別に会われて、これと言う注意や連絡事項を伝えられています。それと言うのも神様から、御自身の帰天以後の世の中の動きや、ことしろ舎の将来を見せられて居られての事があったからです。

司完師は誕生日の昭和五十二年一月三日を最後として道場や事務所にも出られぬ様になられ、同年五月十九日、八十四歳にて天の使命を終えられて帰天されました。

*ある時、神様は景介を霊界の映画館につれて行かれ唯一人だけで、自分の死後約六十年ぐらいの動きを神様から見せられています。

 

大谷司完 伝 ー道場設立1ー

大谷家と隣接する土地を購入され「ことしろ舎道場」を設立されます。昭和四十二年の三月末日に神様の鎮座祭が行われ、翌四月一日より道場の営業をされる様になっていたのです。この道の「ことしろ舎本部」と言う看板を併設して「青年研修会」の看板も設けられたのでした。

司完師の考えられる「舎」には少なくとも三ツの意味があります。

一ツの舎は家と言う意味。事代主之命様がお住まいになる家と言う意味に受け取られます。

一ツの舎は学校の意味。霊魂の教育を基とした霊的な学校です。

もう一ツは純全とした神書『天使の声』の頒布会の意味が含まれています。

昭和四十二年四月一日より発足した「ことしろ舎」は、人材養成の為の道場の意味でした。

奉仕者として仕えてみないか」と申される司完師の言葉に甘えて奉仕に出任させて頂く事いなったのです。奉仕者は赤川昇氏と私の二人でした。

ことしろ舎の玄関を上がった処に二ツ事務机を置き、二人でよくお道の研鑽し合っていたのですが、一日に一度は司完師が事務所へ出て来られ、神様のお話を聞かせて下さったり、質問に対して細やかにお答え頂いていたのでした。

一月三日は司完師の誕生日なので、当時熱心な信仰者達は、その日に皆自主的に集まっていました。神様より年毎のご方針を伺われた話を聞かせて下さったり、普通は聞くことの出来ない、霊界の神秘なるお話を聞かせて頂くことが出来たからでした。

又、大津名物の「かねよ」の「うな重」を全員に振る舞って下さって一緒に食事をされる事もあったのです。

大谷司完 伝 ー大津時代2ー

昭和三十二年出された『天使の声』は一巻から五巻のものでありました。言わゆるガリ版で書かれたものでありました。学校の先生をしていた若岡寛氏にガリ版の経験があるので若岡氏に字体で出版されたのでした。

続いて、一巻から三巻までのものにまとめられています。

現在の様に一冊の合本にまとめられ出版される様になったのは昭和四十四年からなのです。

本が出来上がったので若岡氏は「これを如何にするのですか」と聞きますと司完師は「多くの人達に頒布し買ってもらうんじゃ」と答えられたそうです。

それで『天使の声』の頒布会「ことしろ舎」が同時に設立されたのです。

『天使の声』頒布会「ことしろ舎」は、静岡県清水にも作られました。場所は乾病院でした。

神様は「清水から開け」と申されたからです。その神意を伺われると、古い時代に日本を汚し始めた国土は清水らしいのです。従って清めの御用を始めるのは清水からであると言うことであった様なのでした。

司完師が清水に入られた時、神様から謎で示されて問題を提供されます。それは夢の形式で見せられました。三ツのダルマが並べられています。そのダルマにはそれぞれ名札が付けられています。

一ツは乾、一ツは西村、一ツは度会。そこで謎を解されるのです。ダルマとは手足が付いていない、従って働きがないので、この者達に何か仕事を与えてやれとの神のお示しなのです。

神様より謎を示された司完師は、三人に会って事の次第を話され、かねてより心にあった、スェーデンボルグの『天界と地獄』の出版をするべく仕事を与えられるのでした。

これは、個人的には、スエーデンボルグという人物が自分と同じように霊界の見聞をされていて、先に文献を表し表現方法を参考にされた為、御礼の意味で『天界と地獄』の訳本を一千部限定でだされたのでした。

この本の発行の夜、スエーデンボルグの精霊が脇ぞえ二名を従えて現れ、感謝の意を表した事があったのでした。

この本は昭和三十六年三月三日に現代新社より、出版されています。

大谷司完 伝 ー大津時代ー

大津市の居宅を見られた司完師は、大変気に入って神様に諏訪湖でなく琵琶湖ではいけませんかと伺われます。「琵琶湖の側でよろしい」と許されるのでした。

司完師は終戦後間もなく二ツの会社を立ち上げられます。一ツは朝日鋳造所と言う鋳物工場と、もう一ツは協立農薬と言う農薬の会社でした。

司完師自身の事業力としての手腕を如何程に発揮出来るのかと言うこころみでもあり、信仰者による信仰者の為の会社であり、信仰者達が戦後の生活苦から守られる為のものでありました。

昭和二十二年、五十四歳の時、赤川ハツ(後に真砂子と改名される、ハツ三十七歳)と再婚される。

昭和三十二年節分の御示しがあり、「予てその方に知得せしめたる、霊界修業の記録に基づき、差支えなき限りに於いて、発表致すようこの度神界よりお許しありたれば、直ちにその準備にとりかかるがよい」と三十六年目(霊界への出入りを許されてから)に初めて発表のお許しを頂いたのである。

『天使の声』は、大谷司完著となっていますが、当人の言葉に依れば「天使の声は私の著としていますが、この本はまったく神の御意志の儘に私が代弁して書かせて頂いたものであって、私の人間的な表現のものは神様から、止められているものとなっているのです」と一切が神様が校正されていることを語られています。

『天使の声』は「神の声」です。日本の真実の神様が私の精霊を通じて伝えられたものです。言うなれば文字となった神様と言えるものです。ゆえに神書と言っています。

大谷司完 伝 ー新しい旅立ち5ー

長らく独身生活をされていた司完師に対して神様の方から「荷車は片輪では荷物は運べん」・・・即ち新たに神様から持たされる荷物(ご神業に仕える為の大役という責任)には独身では仕えられんぞ、と謎で教えられるのでした。

妻を娶って助けてもらえと申されたのでした。そして「その女は十勝川の畔に住んでいる」と教えられ、人知れずその人物を捜す様にされるのです。

札幌に住んでいた赤川ハツは、早くから京都に出てお世話になって居た弟、昇の為に一度山梨に行って姉として司完師に御礼を申し上げたいと思っていたのでした。

山科の司完師宅を訪ねたハツは、丁度写真の暗室に入って仕事中の本人と出会いました。

この時司完師の額にビビッと感じるものがあったそうです。この様な事は司完師の体の特徴で、男女を関わらず霊的因縁を持った人物と出会った時に起こる現象でした。

この時がキッカケとなって手紙のやり取り等があり、「取り敢えず北海道を出ていらっしゃい」と言う事で、赤川家は揃って大津市尾花川に移転することになるのです。

山科時代も十年近くなって来た頃、神様は「お前を修業さすのに琵琶湖が良いか諏訪湖が良いか考えている」と申されるので、神様が行けと申されるなら何処でも行きます、答えました。

信仰者達は、遠方に行ってもらったら自分達も困るので、神様になんとか琵琶湖ではいけませんかと伺って下さい。家は私達が探してみます。と哀願するのです。

そして、大津で適当な住居を探し出して司完師に進言するのです。「先生の住居にふさわしい物件を見つけました。一度見て下さい。又神様に大津ではいけませんかと伺って頂きたい」と大津で決める様に言うのでした。

大谷司完 伝 ー新しい旅立ち4ー

しかし、この様な親心を持って接して下される神様も、反抗する事に対しては厳しく対応されるのです。

司完師は、神様と約束されている霊界見聞や神様からのお諭しを記録しておくと言う事に反して、数日間書かれなかった事がありました。

ある日、大阪の笹岡宅を訪ねた日のこと。歓迎を受け座敷に通された時です。体にチクッと痛みがで出来たのでした。その痛みは今迄に無い異常な痛みです。

勘の鋭い司完師は「これはただ事でない」と思われて「すみません、すぐに帰らせてもらいます」と笹岡さんに申されます。

とりあえず理由は別として退散されることになり額田の駅に着いた頃から益々痛みが増して来ます。

家に帰る途中で倒れたら、他人さんに迷惑を掛けることになるから、フラフラしながら山科の家に着いたのです。

家に入るなり布団を敷きバッタリと寝込んでしまうのでした。高熱はでるわ、体はだるいし、医師に訪問診断してもらうと、急性の肺炎だそうです。この頃、肺炎三日と言われ後三日の命を宣言された様なものです。

そこで動かぬ体を這う様にして神前に行き、神に祈りお詫びするのです。神様は現れるのですが、ジッと見られるだけで何も申されません。

何度詫てもダメです。このまま死んでしまっては大変です。それこそ必死のお詫びをされるのです。そこで、やっと許されます。神様に逆らうことは、如何に恐ろしいことかを知らしめられるのでした。

後日、静岡県清水で開業されていた乾医院に新しいレントゲンを買い入れられた時、試しに司完師の肺のレントゲンを写されました。肺炎の後が残っていました。

その事を自ら大勢の人の前で「私は先生等と言われてますが、実はこの先生の信仰もこの程度のものなのです」とありのままを語られています。

大谷司完 伝 ー新しい旅立ち3ー

対求道者にも誠に厳しい教えをされていたが記録に残っています。

「とにかく働くことだ。元気をだしてやれば何とかなる。本当の修業となったら、こんな楽な生活でない。自分で働いて得た金で食べるなら、例えウドン一杯でも美味しい。信心のことと、生活のこととは混せず超然と扱い処して行き、その時その時、良い絵をかいて行ったら良い。現在処世上のことは、御魂とはチットも関係ない、とにかく落ち着く様に・・・」

(ある人、聖者の作品の処置につき伺う)

「祭典気狂い、神書呆気は大嫌いじゃ。形の事で人に相談すると言う様な時ではなし、心相応で宝物でも執着のかたまりとなるものである。私も掛軸を三本だけは取っておきたいと思い家に仕舞っておいたが、スッカリ持って行かれてしまった(警察に)」

大本事件当時、教団内よりスパイ呼ばわりされたこともあったのでした。

「必ず荘厳なる時代が来る。荘厳なる様式となる。尊い犠牲を払って、一人一人テストされているのである。応える道は唯、御魂みがきのみである」とその苦難と試練をのり超える方法を語られています。

又、司完先生と神様との間にこんなことがあったのです。

神様の御指導のもとに修業を重ねられて二十年も経過していました。

しかし霊界で活動出来る様に、現世での生活は思った様には行きません。神様に教えられる様になかなか人も金も物も思う様にいって居られなかったのでした。神様にお会いされた時に「神様に対して申し訳ないですけど、頼りないです」と申されたのです。

神様は「それならばもっと神様を頼りに出来る様に修業せよ」と答えられました。

正に親が子を養育されるような対応です。神様はそれこそ広い心で受け止められています。司完先生も歯にきぬ着せず思った事をありのままに話されています。