神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

悪因縁に依る霊的障害

因縁の種類に大別すると善因縁と悪因縁に別けられる。

善因縁とは、自己にふれる人をしを幸せにする。

悪因縁とは、逆にふれる人を不幸にする。

理由の解らない病気になったりワケの解らない状態に自己がはめ込まれたりする時は、何か悪い霊などにやられているのではないかと考えることがあります。

この様な時、神主さん等にお祓いをお願いする人がいますが、その神主さんや修業者が真に神霊を招待したものか、単に儀式だけのものかによって結果が違ったものになります。

 

水子のこと

人間がこの世に出生するということは、単に男女の交合の結果と思われている方がいますが、人間には肉体に精神が宿ってこそ、その人間としての価値が表れるのです。

神様のお計らいにより人間の魂は、因縁のある男女に魂を宿らせ給いて、一人の人間がこの世に出生して来るのです。

祝福されて生まれて来る子を人工流産で流してしまうことは、多くの霊的問題を作っているのです。

生まれでて来る霊魂の方から見ると、せっかく生れ出る千戴一隅のチャンスを、この世の人間の個人的な考えで拒否されるので、又霊界に戻されてしまうのです。

流産の後、すぐに宿りやすいというのは、せっかくのチャンスを一度流産で逃したので、こんどこそ正常で・・・と生まれる霊魂はより真剣になるので、簡単な性行為でもすぐに宿ってくるのです。

自然流産の場合は、母体の体調体型にも関連していますので、宗教的に見る罪という見方は成立せず、生まれてくる霊魂もある程度の理解もあるのですが、人工流産の場合は、宗教的に罪の成立もあり、生まれて来る霊魂もうらみを持っているものです。

自然流産児及び人工流産児とも、簡単な葬式をしてやり、その御霊を招魂して霊祭をしてやらなければなりません。

宗教家にまかして、その供養料を支払っているからと、霊の方は納得するというものではありません。

水子地蔵を買って来て、祭ったからとてその霊は納得するものではありません。

あくまでも、その霊に対して行った夫婦の当事者が、直接その霊をなごめる行為をしない限り、難しいものとなっています。

 

「めぐり」というもの

 誰であっても「いつも若々しく健康で幸せでありたい」と願わぬ者はないでしょう。

思わぬ不幸や災難に遭遇して、苦しみ、もがき、泣く目に遭わなければならないのは、その人が持って生まれた目に見えぬ業・因縁と、自らの言動によって積んだ罪・穢れによるものです。

苦痛の原因というものは、大抵は自分の蒔いた種が生えてきたものであり、それを刈っているのと同じす。

つまり、良くも悪くもすべては自業自得なのです。

また、物事が都合よく運ばない・・・というのは、その人の「めぐり」が未だ取れていないからです。

この「めぐり」とは、主として人間のつくりし、罪業及び悪想念であります。

霊的に見た葬式 2

葬儀は、その土地の風習や宗教の宗派によっても色々違っていて、それぞれに死の自覚を促すように作られています。

葬儀はその人が解りやすい方法にて、やってあげるのが本人のためになるのです。

例えば、仏教徒であれば仏式、クリスチャンであればキリスト教式、神徒であれば神式と。

死の自覚がないまま、霊祭もせずにいますと、その家にのこって地霊となることがあります。

○ 無神無霊魂者は、そのまま家に住むことが多い。

○ 墓好きな人は、死後墓に住んでいる。

○ 仏壇好きな人は、死後仏壇に住んでいる。

○ 檀家に世話になると思って死んだ人は、檀家に住んでいる。

 

霊的に見た葬式 1

霊魂を認めない人は「人間は死ぬと煙のように消えてしまうものである」と考えられているようです。

葬式は、死者のためではなくて、家や会社の面子を守るためにおこなっていることが多いのではないでしょうか。

従って、本人(死者)のためとは、いいながら実際には生きている人間のためにやっているような印象を受けるようなのが多く、まとをはずしたような処に金をかける、ということになっているようです。

霊的に見た葬式というのは、まず本人に死の自覚を与える尊い儀式となっています。

大抵の死者は、死を迎えても自分は死んだと思っていないので、霊界にしてもはたまた現世にも大変迷惑をかけてしまうのです。

そのために、「貴方は死んでしまって、今は霊体となっているのです。霊界に来れば、神(仏)のカルマに従いなさい」と教えてあげる儀式が葬式となっているのです。

人間の生まれ替わりについて

 動物が人間に、人間が霊止(ヒト)に、霊止が天使天人に、天使天人が神にと、霊的進化を目標として向上を計る為に、生死流転があると思っていなければ、人生の答えが出てきません。

人間は生まれ替わりによって、たびかさねての人生経験を深め、少しずつ賢く、少しずつ強く、少しずつ優しく、又少しずつ霊的に向上しているものです。

生まれ替わりの回数によっても、一度よりも二度、二度よりも三度とその度数の多い魂(即ち古い魂)程、高級となっています。

想念は実体となり現れる

想念とは流動する情動。日常フィフィと感ずることの出来る情動のこと。

「ああして見よう、こうして見よう」

「行って見ようか、それともやめておこうか」

「これを買おうか、やめようか」

等を色々と考えてくる想い。これが次第に意志を形成してくるようになるのです。

意志というものには行動が伴いますので、「想ったことは実行する」というのです。

霊学では、想ったととは実行したことと同です。

意志とは、情動が一つにまとまったこと。

顕現とは、それが現れ行動すること。即ち、他人にも解るようになること。

悪いことをしておきながら、つかまって見ると、つい魔がさしたとか、ほんの出来心でついやってしまった。というのがありますが、想念・意志・実体の法則から見るとそんなことはあり得ない。

たえず、心のな底でそれをやって見たいと思っていたので行動したのですよ。ということです。

すべての人生に起こって来ることは、自分の意志にもとずいてやっているので、その意志について自分が責任を取らないといけない。というのが霊的に見た法則になっているのです。